食育と、鷲田先生のおはなし

こんにちは、海運堂管理人のさーりんです。

今日は、食のお話です。

ご存じの方も多いですが、私は食い意地を張ります。
食べるのが好きです。

最近、食べることについていろいろ考える機会が多いです。

添加物の話です。

うちではある程度食べ物に気を遣っています。
化学調味料や添加物は極力摂らないようにしています。
身体に悪いから、というより、美味しくないからです。
買い物の度に商品を裏返し、原材料を確認しますが、
原材料が少なければ少ないものほど、
「あー苦労して作ってくれてるんや、美味しそう」と思うようになりました。
原材料の欄がカタカナだらけだと、がっかりします。
「あー、少しでも安い値段でそれっぽいもの作ろうとしてるわ」と残念になります。

でも、カタカナだらけの食品を求めている消費者がいるから、
そのような商品が流通するわけですね。
安い、簡単、便利、きれい、おいしい。
そこでは添加物が大活躍です。
「増量する」
「高い本物食品を偽物食品で置き換える」
「大量生産をする」
「見た目を美しくする」
「濃厚な味をつくる」
「保存性といますぐ欲しいという要求を同時に満たす」
をかなえるために、添加物がどんどん投入されます。
(この辺は、「食品の裏側」という本に詳しく記載があります。読んでみてね)

その事実を、知っている人と、知らない人がいます。

私自身は、化学調味料や菓子パンなどで育った人間です。
ひょんなことで主人と結婚したのですが、
主人の家庭は食べ物にとても気を遣っています。

あれは忘れもしませんが、結婚前に主人にちょっとしたものを渡しました。
景品でもらった、中華料理の素。
野菜さえ入れれば、本格中華ができる優れものです。
それを主人に「よかったら使って」と渡したところ、
「こんなん使ったことないなー、食べへんなー」とうつむいていました。

今の私なら、「そんな添加物まみれのもの、人に渡したくない」と考えます。
でも当時、私は「添加物」自体を知りませんでした。
そして、なんだかとてもつらかった。
自分が幼少期から慣れ親しんだ食べ物をやんわりと否定されたからです。
お父さんと食べたインスタントラーメンや、毎朝食べた菓子パンや惣菜パン。
残念ですが、私にとってはおふくろの味のようなものです。

食育の難しさは、この辺だと思います。

その人が食べるものを否定するということは、
その人自身を否定することになり得ます。

その人は、その人が食べたものでできているからです。

何かを食べている人に「それ毒だよ」と言うことは、
「お前毒だよ」というようなものです。
言われたほうは、気持ちいい訳がありません。

食育。
いくら正しいことを論じようとも、
人のこころに土足で入り込んでいくようなものであってはならないと思います。
「それは毒だ」とか、「そんなもの食べられない」とかいう言い回しはさすがにきつい。
優しくない。

「この食品にはこういう添加物が入っています。覚えておいてね」
で踏みとどまるのがいいだろう、と思います。
判断は、自分ですればいい。

「ちゃんとしたもの」を食べる人を増やすのではなく、
「ちゃんとしたもの」と「ちゃんとしていないもの」があるという事実を伝える。
それだけで十分だと思います。

海運堂の本棚にたまたま(わざととも言います)あった添加物の本を読んでしまい、
「もうお菓子たべれないや」と残念そうにのたまう小学生。
「食べるか食べないかは自分で決めるんだよーふふふ」と茶化す大人。
「えーどないしようーでもおいしいしなー」と悩む小学生。

「教育を他動詞で語るのは辞めよう」
高校時代から敬愛する鷲田清一先生の言葉が胸に響きます。

「教える」「伝える」「育てる」のではない。

おとなとこどもがごちゃごちゃっといて、
気持ちよく過ごせる場所さえ整えれば、
勝手に教わる。伝わる。育つ。

海運堂も、そんな居場所になることができればと思います。

こどもはすくすく育ちます。